ハンブルクの歴史 中世編(下)

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赤髭王バルバロッサバルバロッサ特権とハンブルクの「開港」
12世紀以降,新たにホルシュタイン伯の地位を得たシャウエンブルク家の保護のもと,都市は異民族の襲撃から守られ,商工業は著しく発展した。12世紀後半,アドルフ3世は司教の旧市街 Bischöfliche Altstadt に対し伯家の新市街 Gräfliche Neustadt を建設,ノイエブルクとその周辺に商人を誘致した。
1189年5月7日,伯は皇帝フリードリヒ赤髭王(バルバロッサ)からハンブルクに対する商業特権の獲得に成功した。これによりエルベ川航行における大幅な優遇措置がハンブルク商人に認められた。
バルバロッサ特権は貿易都市ハンブルクの発展にとって決定的に重要であったと考えられ,5月7日はハンブルク開港記念日として今日でも祝されている。


都市の自由
1201年に都市はデンマーク王の手に落ちるが,その支配下にあって都市内の統合が進められ,1216年には旧市街と新市街が合同された。1227年にアドルフ4世がデンマークに勝利したことにより,デンマークによるハンブルク支配は終わる。1228年に大司教が伯に旧市街を譲渡したのち,都市が伯からほぼすべての諸権利を買い取ったことにより,ハンブルクは領邦君主からの独立を達成した。他の多くのドイツ中世都市と同じように,「都市の空気は自由にする Stadtluft macht frei」時代が到来したのである。

1400年頃のハンザ同盟の広がり
1400年頃のハンザ同盟の広がり

ハンザの時代
異民族の跳梁がようやく静まりをみせ,商人たちの遠隔地交易が活気をおびてきた頃,北ヨーロッパに一大勢力が姿をあらわし始めた。諸都市の連合,「ハンザ同盟」である。バルト海と北海をまたにかけたこの連合の盟主として君臨したのが,「バルト海の女王」リューベックであった。それより西,ユトランド半島をはさんでわずか60kmに位置するハンブルクは,リューベックと密接な商業関係を結び,ハンザの一翼を担うようになった。1230年頃には,両都市間の交易路の保護に関する協定が結ばれた。

ビールと魚ハンザの醸造所
さらにハンブルクは「ハンザの醸造所 Brauhaus der Hanse」と呼ばれ,ビール生産でも名高かった。ハンブルクビールの品質はヨーロッパ中に知れわたっており,都市の名産品であった。「リューベックはニシンを,リューネブルクはそれを漬ける塩を運ぶ。そこで生じたのどの渇きは麦芽からできたハンブルクの飲み物が消してくれる Lübeck liefert Heringe. Und Lüneburg das Salz. Den Durst, der so verursacht wird, Löscht Hamburgs Trank aus Malz」という詩が今日に伝わっている。

シュテルテベッカー討伐に使われたハンブルクのコッゲ船Bunte Kuh海賊シュテルテベッカー
クラウス・シュテルテベッカー Klaus Störtebeker。ハンザ市民なら誰もがその名を知っている,伝説の海賊である。ヴィタリエン・ブリューダーという海賊団の頭であり,14世紀末に北海・バルト海を荒らしまわってハンザの船乗りを恐怖に陥れた。
1399年のハンザ会議で諸都市共同による海賊掃討が決定された。ハンブルクも参事会員ニコラウス・ショッケおよびシモン・フォン・ユトレヒト指揮下の船舶「まだら牛号Bunte Kuh」率いるハンブルク船隊を派遣,ヘルゴラント島でシュテルテベッカーは捕縛された。彼は1401年にハンブルクのグラスブローク通り Grasbrookで斬首された。しかしこのバルト海の海賊王は伝説となって,今日でも数多くの書物に姿をあらわしている。

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