ハンブルクの歴史 近世編(下)

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取引所の誕生
商業の発達に伴い,1558年ハンブルクにドイツで最初の取引所 Börse がトロスト橋の近くに建設された。建設当初は屋根も壁もなく,舗装された区画を柵で囲んだだけの広場で,付近には市庁舎や下級裁判所,商品の荷揚げに使うクレーンなどがあった。
取引所はとりわけ呉服商のイングランド産毛織物取引に利用されたが,建設後数年のうちにネーデルラント商人がここをおとずれはじめ,その他の外来商人も集まることで,しだいに国際的様相をおびるようになった。1583年に建物が備わるが,これは1842年の大火事で焼失した。
再建された取引所は1912年に現在の市庁舎に接合された。今日では貿易局 Handelskammer の所在地として一般貿易事務を統括するほか,証券・保険・穀物・コーヒー取引所として機能している。
ハンブルクの取引所 1735年
取引所 1735年
(左側にクレーン,右側手前に市庁舎,右奥の道はトロスト橋につづいている)

j0351371.jpgコーヒーの香りとタバコの煙
中世のハンブルクは,「ハンザの醸造所」の異名のとおり,ビールの町であった。しかし17世紀後半になると,ハンブルクの港はビール樽ではなく,西・南ヨーロッパ諸国からもたらされる異国情緒豊かな産品の詰まった梱や風袋で満たされるようになる。とりわけ人々が欲した品物は,コーヒーや紅茶,砂糖,タバコなどの植民地物産であった。
ハンブルクはドイツで最初にコーヒーハウスが誕生した町であると考えられていた。しかし1994年にその座をブレーメンに譲ることになった。ハンブルクに伝わる最古の記録は1677年のものあったが,新史料の発見により,ブレーメンではすでに1673年にコーヒーハウスが開業していたことが判明したのである。とはいえこの時期のハンブルクでコーヒーの消費が急速に普及していったことは間違いない。
コーヒーハウスは単なる喫茶店ではなく,社交と情報交換の場でもあった。商人,外交官,ジャーナリスト,参事会員たちがそこに集まり,コーヒーを飲みタバコの煙をくゆらし,政治や経済について最新の知らせを伝えあい,意見を交わしたのである。

メディアの発達
17世紀以降,ハンブルクでは新聞業が急速に発達する。これによりハンブルクは北ドイツの商業中心地であるばかりでなく,情報メディアの中心地にもなった。
新聞を欲したのは,貿易商人たちであった。現代と同じように,事業の成功に必要不可欠なもののひとつが,政治や経済に関する最新の情報だったのだ。
1620年代にいくつかの新聞が刊行されるようになるが,もっとも重要なものは1665年に出版が始まった「北のメルクリウス der Nordische Mercurius」だった(メルクリウスはローマ神話の神で,英名マーキュリー。ギリシア神話ではヘルメス。俊足で知られ,富と幸運,商売,旅行者の神である。新聞の読者が,世界中の情報をいち早く知りたい貿易商人であることがよく分かる)。
情報伝達は紙の媒体のみでなされたわけではなかった。16世紀に建設された取引所(Börse)では各国の商人たちが集まり,それぞれの見聞を伝え合った。また先述したように,コーヒーハウスも情報交換の場所であった。

海賊から商船を守れ
ヨーロッパ諸国がひっきりなしに戦争をくり返すなか,ハンブルクは常に政治的中立を貫くことで,あらゆる国々と通商することができた。しかしそれは同時に,ハンブルクを出入港する船舶があらゆる国からも攻撃される可能性をはらんでいた。実際ハンブルク船舶はイングランド,フランス,オランダにより拿捕されることがしばしばあった。
海上の安全が脅かされるなか,ハンブルクにとってもう一つの悩みの種は,トルコ人やアルジェルア人海賊による商船の襲撃であった。捕虜となった船員の身請けのために特別な金庫(Sklavenkasse,1624)が設けられるほどであった。

このような海賊に対抗するため,1668年と1669年に護衛船として2隻の強力なフリゲート艦が建造された。「レオポルドゥス・プリムス号(Leopordus Primus)」と「ハンブルクの紋章号(Wappen von Hamburg)」である。これらはドイツ船籍では最初の軍艦であり,それぞれ54門の大砲,100人の水夫,50人の水兵を備えていた。
護衛船の効果はすぐにあらわれた。1674年のカディスへ向けた処女航海で遭遇した3隻のトルコの海賊船は,巨大な護衛戦を前に逃走したという。また1678年,グーリンランドからの帰路にあった捕鯨船をフランスの私掠船がエルベ河口で襲撃したが,護衛船によりあえなく沈められた。
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屋根裏うさぎ
17世紀頃から,ハンブルクで「屋根裏うさぎ(Böhnhasen)」なる低地ドイツ語が定着するようになった。ウサギは耳の長い小さな動物ではなかった。その意味するところは,「もぐりの職人」である。
ドイツのほかの都市と同じように,手工業者が一人前として独立するには同職組合(北ドイツではアムト Amt,一般的にはツンフト Zunft)に入り,「親方(マイスター Meister)」の資格を得なければならなかった。同職組合への加入条件は時とともに厳しくなり,若者職人が親方となる道は日増しに狭められていった。
そのような中で,組合に入らないままもぐりの仕事をする職人が増え始める。彼らは屋根裏(Böhn)を工房としていたので,「屋根裏うさぎ」と呼ばれた。もぐり仕事を摘発するために,都市の認可を受けた親方と役人による「うさぎ狩り」が頻発し,ときには血を見ることもあった。もぐり職人をかくまう市民もおり,その場合には自由に仕事をすることが認められていた。

00335767.jpg世界初の専門図書館
1735年,商業委員会※により世界初の商業に関する専門図書館が創設された。
オランダからは地図や海図,港湾図,商旅行記が,ロンドンからは「最新で有益な商業と航海に関する本」が集められ,市内オークションではハンブルク関連の書物(Hamburgensie と呼ばれる,都市景観図や都市史に関する本)が競り落とされた。歴史や数学,自然科学に関する著作が購入され,新聞も保存された。多くのハンブルク商人が自分の所蔵する書物を寄贈した。
第二次世界大戦中に多くの書物が失われたが,今日でも図書館 Commerzbibliothek として存続し,貴重な史料を保存している。

※商業委員会=Commerzdeputation:「名誉ある商人 Der Ehrbare Kaufmann」と呼ばれる商人の代表団により1665年に設立。今日の商業会議所 Handelskammer。

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