はじまりの丘
世界都市ハンブルクの萌芽は,6世紀頃にアルスター川,ビレ川,エルベ川に囲まれた土地につくられた,ザクセン族のほんの小さな交易拠点であった。川の合流点に突き出すようになっている低い丘から,商人たちはアルスター川の浅瀬を横断したのである。この場所が都市ハンブルクの核となる。7世紀末にはザクセン族の城砦施設が建築された。 ザクセン族の平定
西ヨーロッパでカール大帝による覇権が確立しようとしていた時代。大帝に対して最後まで頑強な抵抗をみせていたゲルマン部族が,ザクセン族であった。8世紀末から9世紀初頭,カールのザクセン族平定(いわゆるザクセン戦争)によってハンブルクの地に居住していたザクセン族は駆逐された。820年代,異民族の襲撃に備え防衛施設が建設された(832年にハンマブルク Hammaburg と史料上初めて言及される城砦。hamは古ザクセン語で河岸,湿地を指す)。
キリスト教伝道
カール大帝のキリスト教帝国の拡大とともに,北ドイツにも布教活動が進展する。大帝の後を継いだルートヴィヒ敬虔帝は信仰にあつく,布教活動に熱心であった。
831年,ベネディクト会士にして「北欧の使徒 Apostel des Nordens」アンスガル(Ansgar 801-865,ルートヴィヒ敬虔帝の委任によりデンマークやスウェーデンへの布教に腐心)がハンブルクに司教座を設置した。司教座は832年教皇グレゴリウス4世により大司教座に昇格した。ヴァイキング
アンスガルの布教活動は,政治的な意図も伴っていた。フランク王国北東部を脅かすヴァイキングと信仰を共有することで,友好関係を保とうとするものである。しかし,北欧の凍てつく大地に軍神オーディンや雷神トールへの信仰とともに生きる戦士ヴァイキングにとって,キリストの教えは当初なじめるものではなかった。
彼らのアンスガルに対する返答は手厳しかった。845年,ヴァイキングの一派デーン人によりハンブルクは襲撃され,徹底的に破壊された。アンスガルはブレーメンへ逃亡し,この地で生涯を終えた。ヴァイキングはこの後も幾度となくハンブルクの襲撃を繰り返した。
二人の支配者
966年,オットー1世がザクセン貴族ヘルマン・ビルング Hermann Billung にザクセン地方の統治を委任したことを発端に,同家がホルシュタイン伯としてハンブルクに支配権を行使するようになる。これは,ハンブルク大司教とビルング家が聖俗の支配者として別々にハンブルクを支配することを意味する。両者は当初協調関係にあったが,徐々に対立が深まっていった。
1061年,ビルング家のオルドゥルフOldulfはノイエブルクNeue Burgと呼ばれる屋敷をアルスター川の対岸(今日のニコライ運河を挟んだ西側の地区。1164年の洪水で屋敷は破壊されたと考えられている。ノイエブルクは通りの名前として残っている),のちにニコライ教会が建てられる場所に設置した。これはホルシュタイン伯家の都市を独自につくるという意志表示であった。 ハンブルクの歴史 中世編(下)へ続く